昭和47年7月16日 朝の御理解
                                中村良一
御理解 第5節
「これまで、神がものを言うて聞かせることはあるまい。どこへ参っても、片便で願い捨てであろうが。それでも、一心を立てればわが心に神がござるから、おかげになるのじゃ。生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことなし。此方が祈るところは、天地金乃神と一心なり。」



信心とは、いえば、あー、叶わぬ時の神頼みというように、ただ、神仏に願いをかけて、そして、えー、願いを聞いてもらおうというのが、神様であり、仏様であると、おー、思われた、あー、そういうご信心を、ここでは、言っておられるのです。ね。今まではと仰った。どこへ参っても、片便の願い捨て。ただ、自分の願うことだけを、願いのたけを神様に申し上げて、そして、もう帰ってくるより他にない。それでも、ね。やはり、その、奇跡的なおかげを受けたという事実があるからこそ、おー、神様も仏様も、すたれなさらなかった。やっぱりあったわけです。やはり、おかげを頂かなかったら、もう、神も仏もあるものかというて、もう、何時の昔に、神仏を葬られたに違いありませんよね。けれどもその、片便の願い捨てではあるけれども、一心を立てて願わせてもらうと、やはり、いわゆる、御利益を受けた。もう、本当に、奇跡といわなければおられないほどしの、奇跡的なおかげも、おー、いただけた。そういう、従来の信心をおいて、えー、教祖は、ね。せっかく信心をさせて貰うなら、生きた神を信心せよと。天も地も昔から死んだこと無しと。此の方が祈るところは、天地金乃神と一心なりと。そこでこの、一心なのですけれども、前にあります、それでも一心を立てればわが心に神がござるから、おかげになるのじゃという一心と、ね。えー、此方が祈るところ、天地金の神と一心なりというのは、大変に違うわけですね。字は同じですけれど。一心、こら前者のほうの一心というのは、いわゆる、片便の場合と、ただ願うと、信心とは、いわゆる、神様とか、仏様というのは、人間が頼むだけのこと。それは、神様が、おかげを下さったというよりも、むしろ、自分の心のなかに、から生まれたという。わが心に神がござるからおかげになると。ね。そこで、金光様のご信心を頂かせてもらい、教祖金光大神ご出現以来というものは、ね。金光様のお取次ぎを頂いて、天地金の神様にお願いをさせて貰う。そこに、いわゆる、もの言うて聞かせるという事。ね。神様の心というものを、私共に伝えて下さることになった。ね。御取次ぎを頂き、御取次ぎを願うというふうに申します。ね。ですから、御取次ぎを願う、お取次ぎを願うとこう言うが、お取次ぎを願うというだけならば、従来の信心と五十歩百歩ですはね。ただ、ここでお取次ぎを願って、お願いばするだけだったら、何様でも同じだという事になるのです。けども、お取次ぎを願い、お取次ぎを頂くという、その頂いて帰れるところに、金光様のご信心があるわけです。ね。金光大神のお手代わりとして、やはり、取次ぎ、ここでは、ほんなら私が、ここに座って、皆さんのお願いを神様に、お取次ぎをさせて貰う。そうすと、今度は神様から、また、お伝えがある。ね。ある場合には、天地の道理を、ね。ある場合には、神様の御神徳を、ね。または、心掛けの上に、こういう心掛けにならせて頂かなければ、おかげにもならんし、また、人間の幸せにという事に繋がらない。というように、ま、懇々と、いわゆる、御教え、御理解下さるわけでございます。ですから、それをいただいて帰らなければです。ね。従来の信心と同じことになるわけです。ね。もの言うて聞かせるとこう、ここでは、そういう神様の心を言葉に、お互いの、銘々が頂かなければならないところを、所として頂いていけれるという事。ね。そこから、いわば、初めて聞く、天地の御恩徳。初めて聞く、天地の、いうなら、道理である。いわゆる、真実である。ね。真のいき方、真の道、真の信心という事が、そこで言えれるわけです。ですからその、真の信心、真の道というものがですね。身に着いてこなければならん。ね。そこから、例えば、昨日も、朝の御理解にも申しましたですよね。庭の口へ出てみよ、空が神、下が神と。神に会いたいと思えばとこういうのである。ね。ただ、それが、その、金光教で拝ませて頂いておる神様の説明だけに過ぎずに、その、本当に、天地、ここでも、昔から死んだことないと、天地は。ね。いわゆるその、生き通しに生きてござるのが天地なのだ。そこで、私共の心が生きてこなければならない。心が生き生きとして、喜びに溢れるというか、輝くというか。そういう心がです。教えを頂き、いわゆる、頂いて帰るという事によって、段々、分かってくるわけであります。ね。心が生き生きと喜びに勇んでくる。ね。そういう心で、空が神、下が神という神様に接する時にです。生きたものと、生きたものの働きという事。ね。生きたものと、生きたものの、おー、繋がりという事が出来る。それが、信心をさせていただくものの喜び、いや、金光様のご信心をさして頂くものの喜びなのです。ただ、お取次ぎを願って、おかげ頂いたというのであったら、大したことないのです。ただ、おかげを頂きゃ有難い。おかげ頂かなかったら、あー、もう、神様もいい加減なもんだといったような事にもなりかねない。ね。心が喜びで、生き生きと弾んでくる。その喜びの心を持って、天地を拝しますときにです。ね。天地との繋がりと言うか、天地との交流という事を、これは、体験するわけです。実感していくことになるのです。ね。それを分かりやすくいうと、ほんなら、天地の声が聞こえてくる。ね。それを、ここでは、まあ、あー、天地の奏でて下さるリズムというふうにも申します。ね。そういう、リズムに合わせていく、乗って行くところの生活。それが、私は、有難い、勿体ないという、信心生活は、そこから、そういうところからしか生まれてこないと思う。ね。此方が祈るところ、天地金乃神と一心なりと。ここで仰っておられる一心というのは、もう、神様と教祖金光大神がひとつになってござるという事。だから、神の願いは、金光大神の願いであることになります。ね。そこのところを、私共も、やはり、これは教祖金光大神、御一方のことではない。信心者、全部のものが、そこのところにお陰を蒙って行かねばならない。大坪総一郎が祈るところ、天地金の神と一心なりというところまで行かなきゃいけない。ね。はー、でも、神様の心と一心になるのは、大変難しいことなのです。ね。それは、例えて申しますと、ね。木の葉の滴が落ちる。それが落ちて、谷川に流れ込む。その一滴の、一滴にしか過ぎないのが、私達の信心、私達であるという事は間違いないのです。けれども、その一滴のね。水が谷川に落ちたら、もう谷川の水でしょうが。川に入ったら、もう川の水と一緒なんです。それが、大海に流れ込んだら、もう、その一滴は大海と同じなんです。私はそういう事だと思うですね、一心とは。ね。それを、ほんなら、どういう事かと、また具体的に言うならばです、ね。お任せするという心なのです。それを、もちっと言うならば、安心してお任せをするという事なのです。いや、喜び勇んでお任せをするという事なんです。ね。そこにはね、天地と一心、天地と一体という働きが、そこから起きてくるのです。ね。なかなか、しかし、難しいことです。自分の都合の良いことは任せられますけれども、ね。自分に都合の悪いことは、なかなか任せるのに難しい。
昨日、おー、久留米の佐田さん達ご一家で、毎朝、朝の御祈念にまいって見えますが、昨日の、んー、お届けがありました。えー、二番目の娘さん、文江さんというのがおります。大変元気のいい子です。えー、それが、んー、それっこそ、お神酒を頂かせようと言うても、口もあけきらんくらいに、おなかがせいたんです。ね。ほーら、一家中のものが、やっぱり心配しますよね。その時に、佐田さんの奥さんが感じられたことなんです。ね。今日こそ、親先生がいつも言われる神様へ、ね。もう、それこそ、しみじみと、しっとりとした信心、御祈念をさせていただこうと思うたと。お祖母ちゃんは、あんた達の子供じゃからもう、あんた達が、あんたの信心は、私が任せるとこう言われた。ご主人は、余りのことですから、これは、やっぱり、ちょっと医者に見せたがようはなかろうかとも言われますし、思うておられたらしい。私は、思うのにですね。その、日頃ね。もの言うて聞かせると仰る。金光様のご信心の有難いという事は、こうして、日々、お取次ぎを願い、お取次ぎを頂いて帰る。その頂いて帰ったものがです。血になり、肉になって、いよいよまさかのときにです。その教えが生きてこなければ駄目だと思うです。なんでもない時には、わかっとるようであっても、何かの時にはもう、信心から離れておるようなことでは。けれども、なかなかそれがね。ほんなら、二年、三年、五年で出来るとは思われません。もう、一生懸命信心させていただいた上に、体験に体験を積んでいかなければ、ね。ただ、子供がもう、それこそ、せき殺すようにせきよるとを横に見といてです。ただ、もう、無我夢中に神様にお願いしました、おすがりしましたというなら、まだ、あー、これは、あー、これはまあ普通じゃないでしょうか。ね。日頃の信心に物言わせて、今日こそ、それこそ、しっとりとした御祈念をしたいち。神様と、本当に、今日は、ね。それこそ、しみじみとした御祈念を捧げさせていただこうと。おもむろに、ご神灯を点けられた。お明かりをつけられた。そして、まあ、長い長い御祈念があったという事です。もう、ほんとにもう、神様のほうのご神灯にもね、霊神様のほうのご神灯にも、ぱちぱち言うておいさみがつかれたそうです、おローソクに、ね。だから、そげなつば、直ぐ真似しろというとやりそこなう。皆さん、やりそこないますから、ね。どうぞ、先生お願いいたします。こんな具合悪いから、医者に見せます、薬を飲ませますと言うて、お取次ぎを頂いて、薬をも飲ませにゃならん、医者にもかけて、いけないという事じゃないです。けれども、これをね。この難儀を通して、もう、今まで味わえなかったような素晴らしい信心を、ここに現して行こう。いや、広い信心にもの言わせようというようなものが出来たら、もう、それで大丈夫です。もう、そこにはね、生きるとか、死ぬとかもう、問題じゃないのです。ね。そういう気持ちで、例えば、神様に向こうたら、それが例え、死んでも、神様に文句があるどころじゃない。いわゆる、お礼を申し上げる心だけしか生まれてこないのです。ね。私も、もう、お届けを聞きながら感心しました。そういう時に、最近、先生が言うておられる、もう、しっとりとした御祈念をさしていただきたい。神様にしみじみ通う御祈念をさしていただきたいと思うた。ね。そういう心に神様が、勇み立ちなさる模様がです、ね。ローソク、両方のおローソクに、おいさみがつかれる。その事から感じられます。ね。ひとせんの御祈念があった後に、もうそれこそ、心行くまでの御祈念をされたわけです。と、同時じゃったち言うですね。おなかがせき止んだのが。さすがのご主人も、もう、お前には負けたと言わんばかりの事をいわれたという事でございます。素晴らしい信仰体験ですね。いや、そういうものが、日に日に刻み付けられるようにね、しみ込んでいっとかんとね、御教えが。もの言うて聞かせて下さる、いわゆる、願って頂いて帰ることが出来ておらんと、まさかのときに、そういう心は生まれてまいりません。ところがなんです、今の話は、昨日とも、一昨日、その前の日です、ね。ところが、今度は、よくなられた。昨日は、マルショウで、こちらへ皆がやってきとりますのに、見えとりませんでしたが、んー、これで、もうおかげ頂いた、ようなったと思うたところが、さあ、どっから出るか分からん、それこそ、四十度もあろうかという熱が出たちいうた。私は、信心はこの辺だと思うね。ね。一の太刀は見事に受け止めた。二の太刀も、そして、三の太刀で、よろよろするような事であっちゃならんのですよ。ね。これが、貫きとおせれるだけの信心を、日頃いただいとかなければいけないです。ね。初めの間は、初めの時には、さあ、今日こそひとつ、しっとりとした、しみじみとした神様に御祈念をさせていただこうぞと思うたけれども、さあ、その次におかげ頂いた。もう、本当に、途端と言うてよいほどのおかげを頂いた。神様のお働きにはもう、恐れ入ってしもうた、一家中の者が。もう、お前の信心にはかなわんと、主人をして言わせるほどしのおかげを頂いた。ところが、その次には、どうかというと、今度は、どっから出るやら分からん、今度は、おなかじゃない、頭が痛んできた。しかも、四十度もあろうかと思うような高熱である。ま、その後のことは聞いておりません。昨日、お届けがあったばかりですから。けれども、親先生、今朝から、主人が、こういうお夢を頂いたという事ですと言うお届けがあって、ほんとに素晴らしかねと言うて話したことでした。夫婦のものに、ここんところ信心を体得させたい、分からせたい。いや、本当のことを分からせたいという神の願いがです。そのお夢の中に伺われるのです。ご承知のように、食料品の問屋をなさっておられます。ご主人は、皆さんもご承知のように、それこそもう、いよいよ人間の素晴らしい久留米商人です。久留米商人ちは、あれは、悪口の時が多いですもんね。えげつない、久留米商人は昔から。けども、佐田さんの場合はそうではない。その、よい意味合いで、よいそのね。商売人根性というか、そん、本当に、あの、敬服いたします。乾物屋さんですから、お素麺なんかの卸もなさる。ところが、頂いておられるそのお夢の中にです。私、値段は忘れましたけれども、例えば、百十円で卸さなければならないというものを、お客さんが買いに来てある。もう、これだけ買うからあんた、もう、百円でよかろうもんち言うてからその、値切られたと、こういうわけです。ところが、これはもう、例えば、奥さんが神様を信じて、かくこたるもので、進まれるようにです。ね。商売にかけたら、ね。これが商売人の根性である。さあ、なるほど、百十円で売っても、百円で売っても、儲かるから、よかよかで売るといったようなものじゃない。もう、私のほう、百十円と決めたら、百十円で、もうそこで、よし、売れなくっても、売れてもかんまんというお夢であった。ね。ここに、なら、久留米商人の根性を、そこに突き貫かれたわけです。もう、本当に神様のその、その時に当たってですよね。そういう、微にいって、細に渡った、あー、御教を頂いておるならば、もう、いよいよの時に迷わんですむと思うです。私は、合楽の信心の素晴らしいことは、この辺にあると思うです。いつも、そのように神様が、生き生きとして、佐田さん一家の、生き生きとした信心に、天地がいつも生き生きとして、そのように働いておられるという事なんです。だから、商売の上だって、自分の子供の上だって、理屈は同じでしょうが。日頃頂いておる、いわゆる信念、ね。それを、貫かせていただこうというのである。ほんと素晴らしいねと言うて、その、私は御理解、その事を聞かせていただいたんです。ね。そうでしょうか。なるほど、そろばんをとってみたところが、百円で売ったっちゃ、たいがい儲かる。だから、ちっとでも売ったが良かけんで売る。そこには商人としても節度がないですよね。ね。信心させて頂くものの、やはり、そこに、例えば、そうしたひとつの、潔いですね、信心の節度といったようなものがね。佐田さんの奥さんの、この今日のお届けから、私は、素晴らしい信心の成長を頂いておられるなと、私は思いました。けれども、決して、それを真似しろというのじゃないですよ。おたがいが、そこの信心のね。その直ぐ後に、桜井先生方夫婦がお届けされましたから、とても桜井先生、もう、教師でんかなわんですのよち言うちから話したこっでございました。なして、そのせいにすると、二人が失敗したばっかりだったからです。ね。子供がちょっとした病気ですわね。そげな、てんで、しち転びするようなこっでもない、ね。それこそ、親先生をして、私が、どうせ、藪医者じゃんけんのち言うちから、言わせんならんような事であった。ですから、私は、桜井先生にその事を、ね。だから、教師とかね、信者とかという事はありません。教師よりも進んで悪いという事は決してありません。ね。それがね、我武者羅であるとかね、無茶苦茶であったらいけません。けれども、神様を信じて疑わない。もう、右と左はね、神様にお任せしておるという事なんです。それを、今日、私は、教祖金光大神、此方が祈るところ天地金乃神と一心なりというのは、そういう、一心を持ったときに、初めて神様と一体であると。それはなるほど、ね。木の葉、枝の下をくぐってくる一滴の水に等しい私達ではありましょうけれども、それが谷川に入れば、もう谷川の水であり。大海に流れたら、もう大海の水なのだ。いうならば、任せきったという心の状態が一心なのであります。そこに、天地の生きた働きが、現れないはずがないのです。
今日は、この五節のところをね。一心を立てれば、わが心に神がござるからおかげになるのじゃという。例えば、偶像崇拝でもいいです。ね。木のかけらでもいいです。石の地蔵さんでもいいです。ね。一心を立てて拝ませてもらうところから、ね。やはり、奇跡は生まれてくるという事。おかげは現れてくるという事。ところが、そういうおかげが現れただけが、現れたことによってです、人間の幸せに繋がるでしょうか。いわゆる、お願いをして、頂いて帰るというだけで、おかげ頂くでしょうか、人間が。ね。いわゆる、お願いを、お取次ぎを頂いたら、今度、お取次ぎを願うたら、お取次ぎを頂いて帰るというところにです。いつの間に、このような心が生まれただろうかという事に、信心が成長してくる。普通でいうなら、もうそれこそ、びっくり仰天せんならんような事に直面してもです。どっこい、かえって、しっとりとした信心が、かえって出来るというほどしのです、心に、段々成長していくという事なんです、金光様のご信心は。ね。そういう心の状態が、私は、人間の本当の幸せという事じゃなかろうか。しかも、願うその事は、もう生きる死ぬるは、あなたに任せてあるということなんです。幸せという字が、上から読んでもしあわせなら、したから読んでもしあわせと読むように、どう転んだところで、有難いという答えが生まれてくる、そこからです、私は、幸せだという事が言えるのじゃないでしょうか。自分の都合よーになってくる時、私は、もう、世界一の幸福者でございますなんていうけれども、そげなつが、何の世界一の幸福者じゃろか。今度は、反対のこつなったら、もう、泣きの涙。これでは幸せとは言えません。ね。そういう信心がです。いわゆる、身に着いていく。それにはです、もの言うて聞かせると仰る。このように神がもの言う。だから、大坪総一郎がもの言いよるとじゃない。神様が物言うて下さってあるんだと頂きながら、それを、行の上に現して、それを、血、肉にして行くという信心が、如何に大切かという事が分かります。そして、どのような場合であっても、任せられるという心。その心がです、任せたとき、もうすでにあなたの心は天地とひとつである。此方が祈るところ、天地金乃神と一心なり、これは、教祖金光大神の専売特許じゃない。金光教の信心させて頂く者の、一人一人がです、ね。いわゆる、任せ切れれるところの信心がね。どのような場合であっても、任せ切れれる、任せすがれれる信心を身に着けていきたいと思いますね。どうぞ。